負荷と体力

先日の記事において、「負荷を乗り越えることでしか、恐怖を克服することは出来ない。」と書いたが、その続きを綴ろうと思う。

何か乗り越えるべき壁があった時、それは自分に対する負荷(ストレス)として、眼前に立ちはだかる。
もちろん、その対処法は無数にあり、真っ向勝負を挑まずとも、ウィットに富んだやり方で、効率よく処理することも出来るだろう。
今日日、がむしゃらに、実直に挑むのは、逆にスポ根っぽくて現代的でないとも思う。

ただ自分の場合は、昔からそうやって機転を効かせすぎて、肝心の基礎体力をつけるプロセスを蔑ろにしていた向きがあった。
負荷をなるべく受け流す形で、真剣に事に向き合わないように避けてきた感じだ。
一応は、タスクとしては完了できるが、本当に自分の体力で乗り越えたことにはならない。

少々、抽象的な表現になってしまったので、具体例を挙げると、自分の楽器演奏遍歴がそれに当たる。
ギターやベースなどの楽器を始めて、早15年以上が経つが、ここ最近はマンネリ気味というか、弾いていても、あまり楽しいと感じなくなってしまっていた。
どうしてなのか分析すると、やはりそれが、真っ向勝負を避けていたことと関係していた。

これまで、見よう見まねで弾いてきた結果、なんとなくそれっぽくは弾けるが、本当の基礎力が抜けていたように思う。
色々な曲をちゃんとコピーして学ぶ前から、いきなりオリジナル曲を作ったり、飛ばし飛ばしにプロセスを進めてきてしまった。

どの分野においても、スタンダードな理論や常套句のようなものが存在する。
そういったものを、しっかりと身につけた先に、応用という次のステップがあるのであって、中途半端な体力のままで応用に進めば、息切れを起こすのは必至だ。
自分の楽器演奏もその状態にあるのを自認した今日この頃である。

そうして気づいたからには、今一度、基礎を学び直す必要があると思い、最近は改めて勉強をしている。
特に半端な接し方をしていたベースについては、この初歩の段階から学ぶものが多い。
久しぶりに弦を押さえる指が痛くなっているのも心地良い。

この「初めて」に対する負荷への対峙は、年々億劫なものになるのだろう。
ただ、どうしてもやるしかない。そうでなければ本当の体力はつかないように思う。
今はそんな心持ちだ。

余談だが、少し前からピアノも始めてみた。
ピアノは幼少期に習い事としてやるチャンスがあったのに、自分がそれを断ってしまった過去があって、ずっと後悔していた。
人生のパラレルにおいて、ピアノを弾ける自分も存在していたのかもと、淡い憧れが心にあった。
その憧れを憧れのままにしたくなかったのだ。

これもまた楽しくも、根気のいる負荷である。